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奄美大島における紬の始まり
奄美における養蚕の歴史は古く、奈良朝(西暦710~793年)以前から手紡糸で褐色紬が作られていたようで、奈良東大寺や正倉院の献物帳に「南島から褐色紬が献上された」との記録が残されてる。
この褐色紬と称されている織物は、当時(天智天皇在位の頃)本土で行われていた古代染色の梅染、桃染の技法が奄美にも伝えられ、奄美に生植するテーチ木、チン木、フク木などの草木を用いて染色されたものであり、後のテーチ木泥染めの源流をなすものと推測される。
また、9世紀の頃奄美は遣唐使の通路であり、その中継基地として中国大陸や南方地域との交流も深く当時の大陸文化や南島文化の交流地点として発展していたことが窺え、また朝廷への往来も頻繁におこなわれており、その際の貢物として褐色紬が献上されたものという説もある。
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江戸時代
江戸時代初期の大島紬は、真綿からつむいだ手紬糸を植物染料で染め、イザリ機で織った無地又は縞布であった物と思われる。
慶長14年(1609)薩摩藩は奄美・琉球を攻略し、奄美諸島を琉球から分離して藩直轄の蔵入地とする。
亨保5年(1720)薩摩藩が奄美大島、喜界島、徳之島、沖永良部島の四島に対して「与人・横目・目指・筆子・掟までの役人には絹布着用を許すが下の者には絹布着用を一切許さず」として「絹布着用禁止令」を出す。これは大島紬が一般に普及していたことをしめすものと思われる。
元禄元年(1688)井原西鶴が発表した「好色盛哀記」には当時の遊客の衣装いでたちを「黒羽二重に三寸紋、紬の大島の長羽織・・・」と記されているが、紬のなかでも泥染めの渋い大島紬がもてはやされていたのであろうと推測する。
文政12年(1829)薩摩藩士伊藤助左衛門の調査をもとに再録された「南島雑話」の文中には「紬を上とし、木綿、苧麻、芭蕉布など、島婦これを織る」とあり、図入りで絣、縞、格子などの紋様がイザリ機で織られいることを記述している。また染め方については「田または溝河の腐りたるに漬け、何篇となく染るときは、ネズミ色付く、泥の腐りたるをニチャと云う。」と記述している。
この藩政時代、奄美の島民は薩摩藩の黒糖政策による過酷な大島紬の生産と上納を強いられ、それが明治初期まで続き、島民は悲惨な生活のなかで紬や木綿布・芭蕉布を織り、それ等が上納や役人との交際用、あるいは生活物資との交換に使用されたようである。また家族のため暖かい思いを込めて糸をつむぎ、絣をくくり、泥染や植物染めをくり返しつつ、夜の更けるのもいとわずにイザリ機で伝統技術の伝承に努力をしてきたと思われます。その尊い労作の衣服が手織りの絣、花織の木綿、芭蕉布などの資料により明らかにされている。
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明治時代
明治の代になり、明治10年(1877)西南の役以後、大島紬は鹿児島を始め大阪などの市場に持ち出され、奄美の人々により始めて商品としての取引が開始される。
明治13年(1881)これまで各種の植物染料で染められていたものを車輪梅と泥土だけの使用を業者間で改め統一する。
明治18年(1886)鹿児島で奄美の人々による大島紬の生産が始まる。
明治22年(1889)第3回国内勧業博覧会に大島紬を出品、好評を博す。
明治23年には喜界島の浜上アイ女史により木綿針で経絣を伸縮させる絣調整技術が考案される。
明治24年頃以降、国内経済の拡大・日清戦争の戦後景気にもより大島紬の真価が認められ加速度的に需要が増大したため、真綿からの手紡糸では生産がまにあわず明治28年頃より練玉糸を導入し原料糸とするようになる。
明治30年(1897)頃これまで古くから使用していたイザリ機が高機に改良され生産能率が向上する。
しかし需要が増えるにつれ生産業者も増え粗悪品を乱造する業者、また他産地からは模造品も出たたため、これを憂えた業者有志が厳重に製造方法を監視、粗製濫造品を排除するため明治34年(1901)鹿児島県大島紬同業者組合(現在の本場奄美大島紬協同組合)を設立。商標を本場大島紬・国旗をデザインした旗印とした。
明治37・38年(1904・1905)日露戦争中不況にみまわれた紬業界は戦後景気により回復する。
明治40年(1907)には笠利の永江伊江温氏等がこれまでの手くくりによる絣出しから締機による画期的な織絣法を開発し、絣が繊細でしかも鮮明な大島紬の生産が可能となる。
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大正時代
大正3年第一次世界大戦勃発時不況にみまわれるが回復し史上最高の好景気を迎え大島紬の黄金時代となる。
大正5年鹿児島市に鹿児島県織物協同組合が設立される。
大正9年一次世界大戦終了より大島紬が大暴落し多数の倒産者を出す。
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昭和初期より終戦
昭和5年(1930)大島紬の部分色入り開発。
昭和8年(1933)正藍大島・夏大島が生産される。
昭和9年(1934)泥藍大島が生産される。
昭和12年(1937)鹿児島県大島紬同業者組合を本場大島紬絹織物工業組合に改める。
昭和15年(1940)贅沢品等製造販売制限規則・企業整備令により大島紬の製造が制限される。
昭和19年(1944)本場大島紬絹織物工業組合を本場大島紬絹織物統制組合に改める。
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分離期間より日本復帰
昭和20年(1945)第二次世界大戦後、昭和21年(1946)奄美諸島は日本と行政分離され米軍政下におかれる。また本場大島紬絹織物統制組合を本場大島紬生産組合(略称)に改める。
行政分離により奄美諸島は日本本土との交通貿易も自由にならず、密航密貿易という不自然な姿で本土の文化吸収をなす時代が続いた。このような状態のなかで、昭和24年(1949)鹿児島在住の紬業者が本場大島紬の商標を使用していることが判明。行政分離以前の本場大島紬の商標は旗印で、行政分離米軍政下では日本国旗の使用は禁じられており国旗をデザインした旗印の商標が使えず、白紙に本場大島紬の文字のみを入れて使用していた。また行政分離以前奄美産は本場大島紬、鹿児島産は鹿児島大島の名称であった。
しかしながら争わず、昭和25年(1950)商標織口文字を大島紬発祥の地奄美を位置づけるため「本場大島紬」ではなく「本場奄美大島紬」とし、昭和27年(1952)本場大島紬生産組合を保証責任本場奄美大島紬組合(略称)に改める。
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日本復帰より現在
昭和28年(1953)奄美諸島は日本へ復帰する。昭和29年(1954)保証責任本場奄美大島紬組合を本場奄美大島紬協同組合に改め、昭和30年(1955)商標織口文字のみ改めていたのを地球をデザインした証紙(通称地球印)も改める。
昭和30年(1955)合成染料染色の洗浄・色止め処理方法、先染絣の抜染加工法が開発されたことで、多色泥染大島・白大島・色大島など多様化がはかられる。
昭和34年(1959)ベルギー万博で本場奄美大島紬銀賞。初の全国絹織物製品競技大会で本場奄美大島紬が農林大臣賞獲得(河野絹織物製品)。
昭和42年(1967)泥染保存会結成。
昭和44年(1969)純泥染表示証紙を作成し泥染製品の表示を開始。
昭和45年(1970)韓国製大島紬発覚。
昭和50年(1975)本場奄美大島紬伝統的工芸品に指定される。大島紬の県営検査問題を審議開始。
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本場奄美大島紬協同組合創立80周年記念誌より
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